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明治末期の日本橋を歩く―『日に流れて橋に行く』の歴史背景と虎三郎が目指した百貨店の姿

ヒューマンドラマ
漫画★全巻ドットコム

作品の概要と時代設定の妙

日高ショーコによる漫画作品『日に流れて橋に行く』は、明治末期の東京・日本橋を舞台に、時代の波に翻弄されながらも新たな商業形態「百貨店」を模索する人々の姿を描いた重厚なビジネスドラマである1。物語は、老舗呉服店「三つ星」の三男・星乃虎三郎が3年間の英国留学から帰国するところから幕を開ける。実家である「三つ星」はかつての賑わいを失い、経営難に喘いでいた。虎三郎は、ロンドンで目の当たりにした近代的な消費文化を武器に、店の再建と改革に乗り出す1

本作の時代設定である明治40年代(物語の進行における明治44年頃を含む)は、日本近代史において極めて重要な意味を持つ時期である4。日露戦争(1904-1905)の勝利を経て、日本は列強の一角としての地位を固めつつあったが、国内では急速な資本主義化に伴う社会の歪みや、古い価値観と新しい西洋文化の衝突が至る所で生じていた。タイトルの「日に流れて橋に行く」という言葉は、変わりゆく日々(時間)の流れと、日本橋という物理的な場所(空間)、そして過去から未来へと渡る架け橋(歴史的転換)の三重のメタファーとして機能している。

明治40年代の東京・日本橋の空気感

当時の日本橋は、江戸時代以来の商業の中心地としてのプライドと、近代化の波が押し寄せる混沌が同居する特異な空間であった。煉瓦造りの洋風建築が建ち並び始める一方で、路地裏には江戸の風情を残す長屋が密集し、川には物資を運ぶ船が行き交っていた。

作者の日高ショーコは、この時代の「熱気」に着目している。インタビューにおいて彼女は、実在の「三越」や「白木屋」といった巨大資本の創業期をそのまま描くのではなく、架空の店舗「三つ星」を設定することで、創業ベンチャーのような若々しさと自由な挑戦を描きたかったと語っている5。もし実在の人物をモデルにしていれば、明治末期には彼らは既に高齢となっており、虎三郎のような若き改革者が主役となるダイナミックな群像劇は成立しなかったであろう。本作は、史実の徹底的なリサーチに基づきながらも、フィクションならではの自由度で「明治の青春」と「ビジネスの黎明」を鮮やかに再構築しているのである。

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「日に流れて」が意味する物流の変遷

日本橋という街を語る上で欠かせないのが「水運」である。江戸時代、江戸の町は水路によって張り巡らされた「水の都」であり、日本橋川はその大動脈であった。全国から運ばれてくる米、酒、醤油、そして呉服などの物資は、船によって日本橋の河岸(かし)へと荷揚げされていた。

作中でも描かれるように、日本橋の裏手には川が流れ、そこは物流の現場として機能していた。タイトルの「日に流れて」は、川の流れと共にあった旧来の物流システムと、それが時代と共に移ろいゆく様を暗示している。明治末期は、鉄道網の整備と路面電車(東京市街鉄道)の発達により、輸送の主役が「水」から「陸」へと劇的にシフトする過渡期であった。

橋に行く―近代都市空間としての再生

「橋に行く」というフレーズは、人々が船で河岸に乗り付ける時代から、電車に乗って表通りの「橋」を渡り、ウィンドウショッピングを楽しむ時代への変化を象徴している。日本橋は単なる通過点ではなく、目的地(デスティネーション)へと変貌を遂げようとしていた。

この都市構造の変化は、商業施設にも変革を迫った。川に面した蔵から商品を出し入れする「問屋的機能」から、大通りに面したショーウィンドウで客を誘引する「小売的機能」への転換である。虎三郎が目指す百貨店化とは、まさにこの人の流れ(トラフィック)の変化を読み解き、新しい都市生活者の動線上に魅力的な空間を創出することに他ならない。彼は、水運に依存した古い商人の感覚から脱却し、路面電車で移動する新しい大衆の視点を獲得していたと言える。

変化の要素

江戸・明治初期(旧来)

明治末期・大正初期(虎三郎の視点)

商業への影響

主要交通

水運(船)、徒歩

鉄道、路面電車

広域からの集客が可能に。

顧客の動線

河岸(裏口)からの搬入

大通り(表口)からの入店

ショーウィンドウの重要性が増大。

商圏

日本橋周辺の馴染み客

東京市内全域、地方からの観光客

不特定多数へのアピールが必要。

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実在のモデル「三越」とデパートメントストア宣言

本作の歴史的背景を理解する上で最も重要な史実は、明治37年(1904年)に三越呉服店が行った「デパートメントストア宣言」である6。これは、従来の座売り形式の呉服店から、欧米流の百貨店へと業態転換することを高らかに宣言したものであり、日本の商業史における分水嶺となった出来事である。

作中において、業界のトップを走るライバル店「日栄(ニチエイ)」は三越を、それに次ぐ「黒木屋」は白木屋をモデルにしているとされる5。現実に三越が先行して成し遂げた改革を、後発の、しかも経営難にある「三つ星」がいかにして追いかけるか、あるいは独自の道を切り拓くかが物語の主軸となっている。虎三郎の戦いは、すでに巨人が闊歩する市場において、ニッチな戦略と奇抜なアイデアで対抗する「ランチェスター戦略」的な側面を帯びている。

座売りから陳列販売へ―商習慣の破壊と創造

虎三郎が直面する最大の壁は、店内の古参番頭たちが固執する「座売り(ざうり)」という商習慣である。座売りとは、客が畳に座り、店員が奥から商品を持ってきて見せる対面販売方式である。これは店員と客の信頼関係に基づく濃厚な接客を可能にする一方で、客が商品を自由に手に取って選ぶことはできず、一見客には敷居が高いシステムであった。

対して、百貨店が導入したのは「陳列販売」である。商品をガラスケースや棚に並べ、正札(定価)を明示し、土足での入店を許可する。これにより、客は店員に気兼ねなく商品を比較検討できるようになり、購買の心理的ハードルが劇的に下がった。

『日に流れて橋に行く』では、このシステムの変更が単なるレイアウトの問題ではなく、番頭たちの職能とプライドを否定しかねない重大事として描かれる。虎三郎は、合理的な英国流の経営手法を持ち込む一方で、日本の商人が培ってきた「暖簾」への誇りとどう折り合いをつけるかという、極めて日本的な経営課題に直面するのである。

「三つ星」における改革の具体的様相

虎三郎の改革は多岐にわたる。彼は、既存の高級呉服だけでなく、手軽な雑貨や洋装品、あるいは流行を先取りした斬新な柄の着物を導入しようと試みる。これは、顧客層を一部の富裕層から、台頭しつつある「新中間層」へと拡大する狙いがある。

作中で描かれる年末商戦や、流行色の仕掛けなどは、現代のマーケティング理論に通じるものがある。虎三郎のモデルについて、作者は特定の歴史上の人物ではなく、「会社員時代に出会った、準備不足に見えて本番で天才的なプレゼンをする同僚」を挙げている5。この「天性のビジネスセンス」こそが虎三郎の武器であり、彼は市場調査データ以上に、街の空気や人々の無意識の欲求を嗅ぎ取る能力に長けている。

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星乃虎三郎―英国帰りの「ビジネスの天才」の視点

主人公・星乃虎三郎は、3年間の英国留学を経て帰国した1。当時のロンドンは、ハロッズ(1849年創業、現在の建物は1905年完成)やセルフリッジズ(1909年開業)といった巨大百貨店が消費文化を牽引していた時代である。虎三郎は、そこで「消費がエンターテインメントになる」光景を目撃したはずである。

彼の視点は常に未来的であり、日本橋の古いしきたりを「変えるべき障害」として捉えている。しかし、物語が進むにつれて、彼は古いものの中にある価値にも気づき始める。彼の成長は、西洋の模倣から始まり、日本の伝統と融合した独自の「和製モダン」を創出するプロセスと重なる。明治44年の年末、華族の娘との縁談を断ったことで生じる波紋は、彼が個人の自由と家の存続の間で揺れ動く、明治の青年の苦悩を象徴している4

卯ノ原時子―「高身長」と洋装が拓く新しい女性像

本作のヒロイン的存在である卯ノ原時子は、明治末期の女性が置かれた状況を鮮烈に反映したキャラクターである。彼女の最大の特徴は、身長が170cm近くあることだ5。現代であればモデル体型として羨望の対象となるが、当時の着物文化においては「大きすぎる」「着物が似合わない」というコンプレックスの源泉であった。

作者の日高ショーコ自身も高身長であり、アンティーク着物の寸法が合わないという実体験が、時子のキャラクター造形に反映されている5。しかし、虎三郎はこの「欠点」を「可能性」へと反転させる。洋装(ドレスやスーツ)においては、彼女の長身と小顔は圧倒的なアドバンテージとなるからだ。

時子が洋装を纏い、颯爽と歩く姿は、明治末期に出現し始めた「新しい女性(New Woman)」の象徴である。彼女は、家や因習に縛られるのではなく、自らの身体的特徴を活かして職業を持ち、社会に進出していく。時子の存在は、百貨店という場所が、単に物を売るだけでなく、女性たちに新しい生き方のモデルを提示する啓蒙的な空間であったことを示唆している。

鷹頭玲司―美術商が見た世界とジャポニスムの影

虎三郎の改革を裏で支える謎の男・鷹頭玲司は、物語に深みを与える重要なキーパーソンである。彼はニューヨークやロンドンで成功した古美術商をモデルにしている5。明治期、日本の浮世絵や工芸品は「ジャポニスム」として欧米で高く評価され、一部の画商は莫大な富を築いた。しかし、彼らの多くは関東大震災や戦争の混乱の中で記録から消え、歴史の表舞台には残っていない。

鷹頭は、そのような「歴史の闇に消えた成功者」のイデアである。彼は日本文化が海外でどのように消費されているかを熟知しており、その冷徹な視線で「三つ星」の価値を値踏みしている。虎三郎が「表の流通(百貨店)」を変えようとするなら、鷹頭は「裏の流通(骨董・美術品)」を支配する存在であり、二人の関係性は、日本の近代化が光と影の両面によって支えられていたことを暗示している。

キャラクター

役割

歴史的背景との関連

星乃虎三郎

革新者

英国百貨店の影響、近代経営の実践。

卯ノ原時子

労働者/モデル

職業婦人の黎明、洋装化による美意識の変容。

鷹頭玲司

投資家/フィクサー

ジャポニスム、海外への美術品流出、投機的資本。

白井辰介

小説家

文学と商業のメディアミックス(漱石・紅葉など)。

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小説家・白井とメディアミックスの先駆け

本作には、白井辰介という小説家が登場する。当初は挿絵画家として構想されていたが、より物語を動かす力を持つ小説家に設定変更された5。彼は、尾崎紅葉や夏目漱石といった明治の文豪を彷彿とさせる存在である。

この時代、新聞連載小説は絶大な影響力を持っていた。夏目漱石の『虞美人草』が連載された際、三越がそれにちなんだ「虞美人草浴衣」を販売し、爆発的なヒットとなった事実は有名である5。これは日本におけるメディアミックス(文学作品と商品販売の連動)の先駆けと言える。

作中でも、白井の書く小説が読者の購買意欲を刺激し、「三つ星」の売上に影響を与える様子が描かれる。虎三郎は、商品の質だけでなく、そこに付随する「物語」こそが商品を輝かせることを理解しており、白井の才能をビジネスに利用しようとする。これは、現代のインフルエンサーマーケティングやコンテンツマーケティングの萌芽とも解釈できる。

森鴎外『流行』と三越の広報戦略

作者の日高ショーコは、森鴎外記念館で開催された展覧会「流行をつくる―三越と鴎外」から着想を得たと語っている5。森鴎外は三越の広報誌のために短編小説『流行』を執筆しており、その中には「どんな洋服でも着こなして流行にしてしまう男」が登場する。

このエピソードは、当時の百貨店が単なる小売店を超えて、文化や流行の発信基地(メディア)として機能していたことを如実に示している。百貨店は、一流の作家や画家に仕事を依頼し、その権威とセンスを借りてブランドイメージを構築していた。「三つ星」が目指すのも、単に安いものを売る店ではなく、こうした「文化の香り」がする高感度な空間なのである。

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『日に流れて橋に行く』は、明治末期の日本橋を舞台に、老舗呉服店の再生を通して日本の近代化そのものを描いた壮大な叙事詩である。虎三郎が目指した百貨店の姿、それは「消費」を通じて人々が新しい自分を発見できる場所であった。

彼は、古い因習(座売り、家制度、着物の美意識)を否定するだけでなく、それらを新しい文脈(陳列販売、個人の才能、洋装との共存)で再定義しようとした。時子という「規格外」の女性が輝ける場所を作ったことは、その象徴的な成果である。

また、本作は鳩成の企みや華族との確執といったサスペンス要素を含みながら、ビジネスがいかに人間ドラマと不可分であるかを教えてくれる4。明治44年の日本橋、そこには現代の私たちが当たり前のように享受している「ショッピングの楽しさ」や「自分らしく生きる自由」の原点があった。

日高ショーコが描く虎三郎や時子たちの眼差しの先には、鉄橋となり、高速道路に覆われる前の、空の広い日本橋と、無限の可能性を秘めた未来が広がっていたのである。読者は本作を通じて、単なる歴史の知識以上の、当時の人々が感じていた「時代の熱」を肌で感じることができるだろう。それは、変化の激しい現代を生きる私たちにとっても、力強いエールとなるはずだ。

引用文献

  1. 日に流れて橋に行く 1|無料漫画(マンガ)ならコミックシーモア|日高ショーコ, https://www.cmoa.jp/title/139175/
  2. 日高ショーコ『日に流れて橋に行く』大特集 | 特集 | ダ・ヴィンチWeb, https://ddnavi.com/hininagaretehashi/
  3. 日に流れて橋に行く 1 – 日高ショーコ – 女性マンガ・無料試し読みなら – ブックライブ,  https://booklive.jp/product/index/title_id/468405/vol_no/001
  4. 日に流れて橋に行く 11のレビュー【あらすじ・感想・ネタバレ】 – ブックライブ,  https://booklive.jp/review/list/title_id/468405/vol_no/011
  5. 舞台は架空の老舗呉服店! 日本橋の呉服店同士の攻防、若き経営者 …,  https://ddnavi.com/article/d1010488/
  6. “What is a trend?” The story of the birth of department stores at the end of the Meiji era #Flowi… – YouTube,  https://www.youtube.com/watch?v=DpDSEJLQo5A
  7. 日に流れて橋に行く 11/日高 ショーコ | 集英社 ― SHUEISHA ―,  https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-792101-4&mode=1

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